法友でいつも圓徳寺を手伝ってくれているジェシーさんがこの度、高雲寺というお寺に入寺することになりました。

 高雲寺は敦賀市より北に海岸沿いを車で20分ほど走ったところにあるお寺です。景色も綺麗で田舎にある地域のお寺という感じで、ご門徒さんが積極的にお寺に関わって熱心に支えている素敵なお寺です。

熱心なジェシーさんと熱心なご門徒さんが互いに呼応してますます素敵なお寺になっていくことでしょう。

 ちなみにジェシーさんは京都に住みながら高雲寺には月に数回通う形で住職の責務につきます。ので引き続き圓徳寺も手伝ってくれます。

最近、高雲寺のあるご門徒さんについてジェシーさんがFacebookに大切なことを問いかける投稿をしました。

以下ジェシーさんのFacebookの投稿内容です

如来が守ってくれなかった、、!

2年前に息子を事故で失った方は、事故が起きて以来お寺に足を入れなくなった、、。それまでお寺の行事には必ず家族でお参りされた。

こういう方にどのように接していけば良いでしょう、。

キリスト教でもよく聞きます、、何故神が守ってくれなかったのか、と、。いつも教会に行っていたのに、、。その怒り悲しみの中、神や教会と縁を切る。その行動によって、ある意味、神に仕返しする。

その気持ちを充分わかっていても、ここで本人自らの歩みが止まる他ないです。神や如来はこの世界で起きていることに対して責任を持っている訳ではない、、これは外から見ている人からすれば当たり前の事でしょうが、悩んでいる人を説得するような話しではありません。

如来の存在をどのように捉えていれば良いか、よく分からない門徒さんが多いです。自らの願い事をかける存在として無意識に"利用"する事が多い。お寺、教会に行ったから、変わりに守ってもらう、或いは、願い事を叶えてもらう。

辛い現実が起きること、住職にも、牧師にも説明はできない。Why did god let this happen?  神は何故このような事が起きることを許しているのか、? 答えはありません。

Terrible things happen and we don’t understand why。

言えるのは、怒りで他人、或いは自分を攻めている間は、自分もそこで立ち止まってしまいます。

苦しみ怒っている人が語り合い聞き合う中その事に気付かされるまで、話しを聞いてあげるしかできる事ないでしょう、、。

しかし、なかなか、難しいでしょうね、。

今日は「老 病 死」を考える、という真宗聞法月例会でお話しをさせて頂きました。善念寺、通徳寺や萬福寺という、三つの寺院の聞法会でした。この暑い時なのに本堂がいっぱいになりました! (以上Facebook投稿より)

深い悲しみに沈んでいる方を前に教えの言葉やこちらの思いはなかなか届かないです。悲しみや怒りの感情を持つ方に仏教の教えをストレートに話しても、正論をぶつけるようなことになってしまい余計に届かなくなるでしょう。

私も思いを聞かせていただく他にないと感じています。

今年の春頃から、圓徳寺のご門徒さんではありませんが、息子さんを会社からのパワハラにより自死で亡くされたある男性が月に一回ほどお寺に来られます。

現在はジェシーさんとその男性三人で念仏の教えについていろいろ語り合う時間を過ごしています。

初めてお寺を訪ねて来られた時は、深い悲しみと怒りに包まれて本当にかける言葉がなく、ただお話を聞かせていただき感じたことを素直にお伝えすることしかできませんでした。

昼頃から夕方過ぎまでただただ思いを聞かせていただくことしかできませんでした。

悲しんでいる方を前に自分に対する無力感でいっぱいでした。

それでも連絡をいただきまた話を聞いてほしいと言っていただいたのは本当に嬉しかったです。

その男性は圓徳寺だけでなくいろいろなお寺に足を運び、法話など熱心に聞かれ7月には得度をされお坊さんになりました。

7月に本山で得度をされたあと圓徳寺に寄ってくださりました。とても晴れやかなお顔をされていて私も本当に嬉しく感じました。

もちろん、息子さんにたいする深い悲しみや無念な思いが無くなったわけではありません。

けっして得度して息子さんの死を乗り越えたわけでなくこれからも抱え続けなければならないでしょう。

私は男性の歩みに私が少しでも支えになれればと嬉しいと感じています。

如来の救い、仏教や念仏の教えは現実の問題や状況を変える力はありませんがその問題や状況を抱えながら歩む力を与えてくれると感じます。

 8月15日に高雲寺でお盆の法要がありました。

ジェシーさんのお手伝いでお盆の法要のお勤めをいたしました。

参詣席には息子さんを事故で亡くした女性が2年ぶりに家族を連れてお寺にお参りに来てくれていたようでした。