僧伽 住職日記 

住職日記

宗教では信心が大切と言われます。

その宗教の救い主だったり教祖を信じたり、教えを信じたりするのは基本的には大切にされている事でしょう。浄土真宗では特に信心を大切しています。しかしそれは阿弥陀を対象として信じるとか教えに書かれている事を信じるという心ではありません。阿弥陀との関係をいただく心であり、教えから教えられた自身のありように気付かされる心です。人が仏を信じる心でなく、仏から私に届く心を信心としています。
親鸞聖人はそのいただいた心を様々な表現を使って教えられています。仏になる種である仏性や、真実を求める心である菩提心も信心の内容であるとしています。他にもさまざまな内容を語られていますが今回改めて僕が大切にしないといけないと感じているのが柔軟心というお心です。これも仏からいただく心で信心の内容の一つです。これは真宗だけでなく禅宗でも大切にされている心です。固定観念にとらわれない心で、言ってしまえば自分自身が変わり続ける事を受け入れる心でしょう。私は変わらない物に安心感を持ちます。確かな自分を確立することを求めていました。

私が30歳の時に仏教の学校に入ろうと思った動機の一つが確かな自分を見つけたかった事にありました。10代、20代と自分に対して自信が持てなかった私はいつも周りの人と比べて劣等感を抱いていました。仏教の教えを勉強したら確かな自分を手に入れられると思っていました。そして確かな自分を手に入れられたら自信を持って生きて行けると思っていました。

しかしそれは間違いでした。知らされたのは仏教の教えを聞けば聞くほど確かな自分などなく、変わらされ続ける自身があるという事でした。価値観や考え方もそうですが私たちが必ず直面し受け入れ難い大きな変化が老病死です。私自身はまだ40代ですし、大きな病気を抱えているわけでもないので老いや病をそこまで実感として感じる事はできません。ですが、まさに亡くなっていく方や、高齢な方、深刻な病を抱えている方の話や悩みを聞かせていただく中で老病死を思います。

自身が死によってこの世と別れなくてはならない、老いや病で今まで出来たことが出来なくなる、それを悲しく辛く悔しく感じていらっしゃいます。最終的にはそれを受け入れるしかないのですがそれは簡単な事ではないでしょう。まして外から受け入れましょうと言われて受け入れられるほど簡単な事ではありません。おそらく心が右往左往した後になぜか自然とうちから起こる心なのでしょう。親鸞さんは自分に起こるはずのない心が起こった事を阿弥陀にいただいた心と表現しています。それはまさに仏にいただいた心でしょう。そして自分自身を受け入れる事が出来た時、また同じく人の身を生きている周りの方を受け入れていく事が出来るのではないかと思います。柔軟心をいただきながら変わり続ける私の心と身体に向き合い死ぬまで人と共に歩み続けるというのがお念仏の歩みなのかと感じています。