ブログ 僧伽
あまり文章を書くのは得意でありませんが、せっかくホームページを開設したのでブログを始めることに致しました。
マメな性格でないので更新は遅いかもしれませんがその時感じたことを中心にポツポツ書いていけたらと思います。
一回目は春のお彼岸の時報で書いた文章になります。さっそく手抜きですが、、、読んでいただければ幸いです。
時間について
最近「タイパ」という言葉をよく耳にするようになりました。
タイムパフォーマンスを縮めた言い方で、効率のいい時間の活用を意味するようです。
無駄な時間を過ごさないようにとにかく時間を有効に使うことのようです。
昔から時間を効率よく過ごす事の大切さみたいなことはよく言われていましたが、最近はすこし行きすぎているように感じています。
映画やドラマなどを二倍速で見るとか、音楽を聴くときにはイントロを飛ばして聴くとか、物質から情報へとここ数十年でシフトしていくなかで体験することの大切さが失われているように感じています。
思想家の東浩紀さんも「人は本当は体験を求めているのに今の時代はおまえたちが欲しいのは情報だろと情報を与えられている」と言っていたのを思います。
一昔前は物が大量に社会にあふれ、物が使い捨てにされることが一つ問題になっていましたが、現在は情報、作品が大量にあふれてそれが使い捨てにされていっています。
本でも映画でも作品を見る大切さは、ストーリーを知ること(情報)でなくてその作品を見ながらまた読みながら作者の伝えたいことやその物語の背景、また登場人物の心の動きや成長を考えること(体験)にあるとおもいます。
私が浄土真宗に出会えて良かったと感じたのは、阿弥陀さんが救ってくださるとか、浄土に往けるとか、はたまた深く難解なおしえの教義がすばらしいと思ったからではありません。
専修学院という全寮制の学校で真宗の教えのもと、一年間様々な悩みを持った仲間と、とことんそれに耳を傾ける先生とのんびりとした時間を過ごしたことです。
一年間でしたがとことん自分と向き合える時間と場ありました。
レポートでも教えについてどこかの引用文をひっぱてきて理論立てることよりも、今の自分の心奥底にある思いを掘り起こすことに重点がおかれていました。
日曜日は一日自由な時間がありましたのでよく鴨川沿いを歩いたり哲学の道(その時はまだ観光客も少なかったです)
を歩きながら考えのんびりした時間を過ごしていました。
そのなかで今の自分に成る背景や歩み、そして悩みの原因を知ることができました。
私は人付き合いができなくてその原因は劣等感からくるものでした。その劣等感は実父に対するコンプレックスからくるものでした。
そのことを自分自身が認めることにゆっくりした時間とそれを受け入れる場所が必要でした。
私なんかの悩みよりもっと深く大きな傷や悩みを持った方々はたくさんいましたが、同じ悩める者として受け入れられた時に初めて他者との関係性が生まれたように感じました。
この忙しい社会のなかで深い悩み痛み、傷を抱えながら歩み続けるしかない方がたくさんいる中で、このような貴重な時間をいただいことに今でも感謝しています。
「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、あまり意味はありません。というのは、誰でも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬とおもえることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。
そして人のいのちは心をすみかとしているからです。」
ミヒャエル・エンデさんの「モモ」という時間をテーマにした小説の一節より抜き出しました。子供の時に初めて読んでから何回も読んでいる本です。
時間について改めて考えさせられました。
合掌
佐藤 亮一